全自動卓でも出来てしまうイカサマ
三麻
先日、初めて関西三麻を打った。これまで記事にして来た「東天紅」はいわゆる関東三麻で、ツモが異常に強い。関西三麻は場所によって異なるが「ツモリ損」形式を採用しているところもあり、ツモ自体はそこまで強くはない。自分が打ったルールでは1000点単位で切り上げ、親と子で1:2に近づけるといった計算方式で行った。以下のルールに類似している。
沈みウマなどの存在により、一局清算では味わえない駆け引きなどを楽しめる。高打点で殴り合う大味の麻雀を好む人にはうってつけである。
さて、最近暇なときに「雀鬼」の動画を見ることが多い。好きな回は真・雀鬼17の「魂を受け継ぐ者」だ。終盤の三軒リーチを受けてのシーンは興奮すること間違いなしである。こういう動画を見て思ったのが、(自動卓でも出来そうなものがあるな......)ということである。
全自動卓
そもそも全自動卓は、洗牌や山積みの手間を省くために開発されたものであるが、「山を自動で積む」そのこと自体が積み込みなどのイカサマを封じる結果となった。昔のそれほど製品の質が良くなかった時代では、牌が明らかに偏って積まれることが多々あり、広義の積み込みが可能だったらしいが、現代ではそれはほぼ不可能だ。さらに、サイコロの電子化(スイッチを押して回す)や点棒表示機能などにより、可能なイカサマは無くなったかのように思われた。しかし、物理的な牌を使って麻雀をする以上、どうしてもイカサマは存在してしまう。
ぶっこ抜き
一番行いやすいイカサマがこの「ぶっこ抜き」ではなかろうか。俗に「左手芸」ともいわれるこのイカサマは、自分の手牌の不要牌と山の牌を交換するという技である。
主なやり方に、不要牌2枚を山の右端に付け、山を前に出しながら左端から2枚持ってくるというものがある。こうするとただ山を直しただけのように見えるが、実は牌を交換しているというイカサマが成立する。
手積みでは、山の左端に赤などの有効牌を仕込んでおけばなお強いが、ランダムな山でも行う価値はある。なぜなら不要牌を捨て、有効かもしれない牌を持ってくるということは、通常のツモを勝手に行うのと同じことだからだ。
握りこみ
握りこみとは、一口で言えば「多牌を利用したイカサマ」である。通常、小牌では精々アガリ放棄くらいの罰則だが、多牌には即チョンボなど厳しい裁定が下る場合が多い。なぜなら、牌が多い方が受け入れ枚数が広く、すなわち聴牌しやすくなり、最後に1枚隠し持ってしまえば速やかにアガれてしまうからである。
また、故意の一発ツモを可能にしてしまう。牌をツモって来た時、多牌していれば手牌は15枚、この時14枚の形が完成していれば、不要牌1枚を握りこんで「ツモ」ということも出来る。しかし、その不要牌1枚を切ってリーチと言えばどうだろう。次巡何をツモってきても、手牌とすり替えれば一発ツモである。
例を挙げると、15枚ある時から不要牌を切ってリーチ、牌姿は以下の通り。
ここで9mを握りこみ、次に引いた要らない牌と交換。要らない牌は手の中へ、9mを卓へ叩きつけ「ツモ!」
マナーとして「牌を卓外に出すな」というものがあるが、これを防ぐ意味合いも持つ。握りこみ(=パーム)には相応の技術がいるが、服の間にでも牌を隠しておけば、気合を入れてツモったフリをして簡単に交換できてしまう。
河拾い
これはかなり技術のいるイカサマではあるが、不可能ではない。名前から想像できるように、自分の欲しい牌が相手の河ないし自分の河に捨てられている時、河から牌を「拾って」きて、自分の不要牌で埋めるというイカサマだ。
上に挙げた動画はかなり手際が良く、スローでなければもはや気づけない。また、最初の方に捨てた端牌や字牌など完全に覚えているわけでもないため、河に捨てた覚えの無い牌があったとしても、(あんな牌捨てたっけ......?)で終わる可能性が高い。ここまで鮮やかにやられたら、全く気付かずに局は進みそうである。
コンビ技
また、一人だけで行うのではない、二人ないし三人(トリオ技?)で行うイカサマも存在する。
通しまたはローズともいわれる、あらかじめサインを決めておき、持っている牌や欲しい牌、リーチの待ち牌などを教えあうというイカサマがある。これは卓に着いている者だけが行うとは限らず、観戦者が相手の手牌をサインで教えるといった場合もある。麻雀漫画内では、さまざまな種類の通しが表現されている。
また、欲しい牌を教えるだけでは終わらない。隣に座っているのであれば、「エレベーター」という牌の受け渡しすら行われる可能性もある。
そこまで派手な動きをせずとも、当たり牌を知っているがゆえに故意にワンチャンスやノーチャンスを作り、相手を誘導するといった技も存在する。
こういった技は積み込みなどを封じられた全自動卓でも可能となってしまうのである。
イカサマ
昭和の玄人(バイニン)と呼ばれる人々が存在していた時代では、イカサマは「見抜けなかった方が間抜け」とされ、実質黙認されていた。しかし現代では、イカサマはあくまで「不法行為」であり、許されない行為とされている。自分自身、同卓した相手がサマ師だったらたまったものではない。
しかし、イカサマを実際の麻雀と切り離し、「技」そのものとして見たらどうだろうか。小島武夫の目にもとまらぬすり替え、桜井章一の全く見抜けない積み込み......まるで質の良い手品を見ているようで、なんともいえぬ感動を覚える。実際自分も、「イカサマそれ自体」にロマンを感じ、ツバメ返しなどを練習していた時期もあった。
それを実践するかどうかはまた別問題である。自分はイカサマして勝つことが麻雀の本質ではないと思っているため、普段の麻雀で友人がイカサマをすればおそらく許容することはできない。あくまで「すごい技」としてイカサマを「鑑賞する」、それが正しい姿勢ではなかろうか。
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