大学生麻雀雑記

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麻雀における「流れ」についての考察

 

流れ

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むこうぶち」3巻 第17話「流れ」より

 「一発ツモ!流れよし!」「3面張アガれず、流れ悪い......。」

 

 麻雀愛好家には、麻雀中にこんな感想を持ったことが幾度となくあるだろう。「流れ」そのものを信じていようがいまいが、そんな気持ちになる。麻雀漫画を読んでいても、たいていの漫画には「流れを読む」だの「流れを引き寄せる」だのと言った言葉が並んでいる。周りの人はどう考えているのだろうか?

そこでtwitterでアンケートを取ってみた。

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 シンプルな問いに対し、かなり綺麗な1:2の結果となった。「流れはあるか」とだけ聞かれたら、「ある」と答える人の方が多数派のようだ。 では、ここで問われる「流れ」とは何か?

「流れ」の定義

 上で行ったアンケートは少々不正確なものである。なぜか。それは「『流れ』の定義」を行っていないからである。では、「流れ」とは何だろうか。とつげき東北さんの記事には、代表的に用いられる定義として以下の二つが挙げられている。

定義1:「流れ」とは、偶発的現象に現れる一種の「傾向」である。例えばサイコロを振る場合に、毎回独立に1~6がランダムに出るのではなく、前回まで「流れ」が悪ければ次の出目も悪い、等の傾向を示す。「今の流れではこのカンチャンは引けない」などの使用法が代表的。


定義2:「流れ」とは、人間の心理における一連の「傾向」である。例えば連続して振り込んだ、ということから、当人が弱気になったり、逆に無謀になったりして、普段の打ち方からずれた打ち方に変化する、等の傾向を示す。

 

 (参考:http://totutohoku.b23.coreserver.jp/hp/SLtotu11.htm

 この記事においてとつげき東北さんは、定義1の「流れ」について非常に論理的に批判している。批判というか「証明」であるので、「いや、自分はこう思う」などの話ではなく、定義1での「流れ」の有無の話はもうするだけ無駄なのだ。

 簡潔に言ってしまえば、「これまでの行動が、(人為を離れた)これからの結果には影響を与えない」ということである。放銃して熱くなってキレ打ちしてしまうという影響の仕方はもちろんあるが、アガったから次局の配牌がよくなるということはないのである。

 

帰納的「流れ」

 ではなぜ、未だに「流れ」があると見なす人の方が多いのであろうか?それは、「こういった経験がある」からである。

 上で述べた、定義1の「流れ」論を破壊したのは、統計の力による。証明で用いられたのは3000試合程度であったが、最近の戦術本では何万、何十万もの試合からデータを取り、種々の確率を求めている。また、その大量のデータは同様に定義1の「流れ」を否定する。

 しかし、我々が知覚できるのはあくまで身近な対局である。週に20半荘打つ人でおおよそ年に1000半荘。しかし、期待値の取り方には色々あるが、いずれも数千~数万対局を行わないと無視できない誤差が生じる。1000半荘やそこらでは「ある程度」の信頼性しかない。

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そして、その1000半荘の信頼性が「ある程度」と化すには、およそすべての成績をきっちりと付けるという条件が必要になる。人間の記憶は印象によって強く残るからだ。

 「オリたらつかなくなる」という印象から戦法を決めてしまった人がその誤りを正すには数百~千半荘では足りない。ただでさえ頼りない「人間」の記憶で「有意とは言えない量」のデータを解釈したのが定義1での「流れ」である。現実と大きな誤差を生じて当然である。

幸運の偏り

 これまで述べた「流れ」の否定は、大局的な視点からみたものである。では逆に、局所的な、我々のスケールから見た「流れ」はどうだろうか。

 「流れ」肯定者の中には、「サイコロを振ると出目が偏る、これが『流れ』だ」と言う人もいる。確かに、数十回、数百回程度では、それぞれの出目の観測回数は等しくならない。これを「流れ」と定義されると「『流れ』は存在する」という回答をせざるを得ない。この「幸運の偏りを『流れ』とする」のを定義3としよう。

 ではこの定義3での「流れ」はどんな意味を持つのだろうか。例えば誰かがツイていたとする。順位は1-2-1-1、次は何着であろうか?「『流れ』がよいから次も上々」ということもできれば、「そろそろ『流れ』も終わるだろうから沈む」ということもできる。どちらが正解であろうか?

 言いたいことはわかるだろう、結局どちらも根拠はなく、それまでの結果から次の予想をすることは出来ない。どこかで聞いたことがある、そうこれは定義1の「流れ」論と結局は同じことだ。成績を見て、「この時は『流れ』がよかった」と言うことはもちろんできるし、否定もできない。ただ、それを活用することができないのである。

 同様の理論で、さらに局所的な「ツモの『流れ』」なども有意性を持たないことが言える。

結論

 麻雀において「流れ」は、定義によって「ある」「ない」と言うことができる。いずれも定義による導出であるので、これ自体は否定できない。放銃して「流れが悪い!」とぼやくことはそれ自体おかしなことではない。しかし、「流れ」から意味を見出すことは出来ないのである。

(参考:http://www.ix3.jp/hiii/02mahken/1-06nagare.htm